智慧を得て、執着を手放す。
昔“ヴァッカリ”という僧は
托鉢中の釈迦に出会い大いに感動し
「いつも釈尊を見つめていたい」
と強く望み、出家しました。
その後、出家した後も
修行をすることなく、
ただ釈迦ばかりを見つめて
過ごしていました。
釈迦は、
この弟子の振る舞いを見て
“このままではヴァッカリは
悟りに向かう道と悟りの境地を得る機会を
逃してしまう”
と心配しました。
「ヴァッカリよ。
私のそばにいて、私の顔ばかり見ていても
何の役にも立たない。
それよりも私の教えを自ら学んで
実践しなければならない。
正しい真理が観えないことは
私の真の姿が観えないことと同じである。
それ故に、汝は私から離れて
修行しなければならない。」
しかしヴァッカリは、
「釈尊は私を嫌っていらっしゃる」
と思い込んで失意のあまり
霊鷲山(りょうじゅせん)の頂上から
飛び降りようとしました。
釈迦はヴァッカリの前に現れて
次のことを唱えました。
喜びに満ちて仏陀の教えに
浄信ある比丘は行の息(や)みたる
寂静にして安楽なる境地に達せん
人にはそれぞれに機根、
すなわち生まれつきの資質、
能力があります。
“喜びに満ちて仏陀の教えに
浄信ある比丘は”
ヴァッカリの機根は「浄らかな信」であり
真理・真実に自己を委ねようとする能力に
富んでいました。
“行の息(や)みたる
寂静にして安楽なる境地に達せん”
行とは変化するあらゆる現象のことです。
釈迦の偈により
変化するものに執着することの愚かさに気づき
知ることで智慧の光に照らされた
ヴァッカリは
無明と執着を離れることを実践し
釈迦への執着が止み苦から脱することができて
心静かな安らかな境地に到達しました。
無知でいることの危うさについて
大般涅槃経(だいはつねはんきょう)には
“もし人に信があっても
智慧がなければ、この人は無明を増長する”
と説かれています。
智慧を養い執着は手放すことを
心がけたいと思います。
大切なことはいつだってシンプル。
どうぞ今をたいせつに。