至誠心(しじょうしん)と懈怠(けたい)の心
釈迦の十大弟子のひとり
摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)
には、二人の弟子がいました。
弟子の一人は師を尊敬し
真面目に仕えていました。
しかしもうひとりは
度々、修行を怠けたり
人を利用して自分の利を
得たりするような弟子でした。
真面目な弟子が
尊者のためにうがい水や楊枝を
準備したところ、
これを見ていた怠け者の弟子は
急いで尊者のもとへ行き
「尊者よ、
洗面の準備が整いました。
楊枝もございます。」
あたかも自分が用意したかのような
顔で言うあり様でした。
あるとき怠け者の弟子は
「尊者様が病気のため
自分が代わりに来ました。」
と噓をついて
信徒の家を訪ね廻りました。
「尊者様は
このようなものが欲しいと
私に言いました」
そう告げては
次から次へと食べ物を要求し
「これは尊者様への
お見舞いの品とします」
といって持ち帰りその道中、
これらすべての食べ物を
食べ尽くしてしまいました。
この弟子の振る舞いを知った尊者は
彼を𠮟りつけました。
しかし弟子は叱られたことを
逆恨みして翌日、尊者が村へ
托鉢に出かけている間に
僧院にある坪や皿などを壊して
部屋に火をつけて逃げ去ったのでした。
この事件のてん末を聞き
釈迦は次の偈を唱えました。
自己より優れ
また 自己と等しき人に
会うことなくば
独り 堅固に行くがよい
愚かなる者を 友とすべからず
もし己より優れた者、
あるいは、己と等しい者を
探し求めるも、得ることがなければ
確固たる心で、独りで修行せよ。
愚かなる者を友とすべからず。
また善導大師は、
『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』
の中で、次のように説いています。
外に賢善精進の相を現じ
内に虚仮(こけ)を懐くことを得ざれ。
貪瞋(とんじん)・邪偽(じゃぎ)
奸詐百端(かんさひゃくたん)にして
悪性(あくしょう)侵(や)め難く
事、蛇蝎(だかつ)に同じきは
三業を起すとも雖(いえど)も
名づけて雑毒(ぞうどく)の善となし
また虚仮(こけ)の行と名づく。
真実の業と名づけず。
もしかくの如き安心起行(あんじんきぎょう)
をなす者の、たとい身心を苦励(くれい)して
日夜十二時、急に走り急になすこと、
頭燃(ずねん)を救(はら)うがごとくするは
全て雑毒(ぞうどく)の善と名づく。
外に賢善精進の相を現わして
内に偽りを懐くことがあってはならない。
貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、
邪(よこしま)、偽り、悪巧みなど
数限りなく起こり、悪性は変わり難く
それは蛇やサソリと同じであり、
身・口・心で行を修めても
それは『毒の混じった善』
また『偽りの行』と名づけるもので
決して『真実の行い』とは
名づけられないのである。
このような心をもって
行業を起こす者が
たとえ身心を苦しめ励まして
昼夜を問わず懸命に努めて
あたかも頭上の火を払うようにするのは
全て『毒の混じった善』と名づける。
これは逸話の弟子に
限ったことではなく
この世に執着しながら
見た目は整えながらも
心の中では「面倒だ」
「手を抜きたい」と思う、
凡夫と呼ばれる人にも
起こる事なのかもしれません。
言葉では分かったようなことを
口にしながらも全く実践が伴わず
偽りの行をすることで軽微な『毒』を
続けていることはないでしょうか。
悪気のないつもりで
口から出た場合であっても
愚痴は人の心に刺さり
広く深く蔓延するものと
教えには説かれています。
逆にこうした偽りの心ではない
真心のことを『至誠心』と
教えには説かれています。
『観無量寿経』には、
『至』とは真であり
『誠』とは実であると
説かれています。
内心と外相、智明と愚闇(ぐあん)の
別を問わず、皆、真実であるべきである。
善導大師は
「至誠心」がないと
往生は叶わないとまで
説いています。
それほどまでに
この「至誠心」は
大切であるとのこと。
人の身と口と心が
同じであることの大切さ・・
現実の暮らしの中でも
どんな場面でもその重要性を感じる
忙しい現代となりました。
「至誠心」について少し
立ち止まって考えてみる時間を
作るのも良いかもしれませんね。
日々、心のセンターリングを
心がけることの大切さを感じます。
大切なことはいつだってシンプル。
どうぞ今をたいせつに。