自信と謙虚
『優婆塞戒経(うばそくかいきょう)』
には、こんなことが書かれています。
人の謗(そし)るを聞きては
心に忍べよ
讃(ほ)むるを聞きては
心に愧(は)じよ
道を行いて
自ら慢するなかれ
人が自分を謗れば耐え忍び
褒められても至らぬ自分を
見つめ直し
常に精進して「自分は偉い」
などと思ってはならない
自信と謙虚は、一見、
相反するもののように
思われます。
ですが釈迦の時代にも
仏弟子には仏法に対する
自信と謙虚な心を同時に
求められていました。
釈迦が悟りを得て
初めて仏法を説いた
五比丘のひとりに
アッサジ尊者がいます。
アッサジ尊者は
いつも控えめで慎重でした。
ある日、釈迦は
そんな尊者に対して
「自信をもって
托鉢に出かけなさい。
そして出会った人々に
自分の感じたままの気持ちを
伝えなさい。」
と伝えました。
托鉢とは、鉢を持ち
家々を回って人々からの
食事の布施を受けることです。
そうすることで
人々が徳を積む機会を
大切にします。
仏弟子として
堂々と振舞えるよう釈迦は
アッサジ尊者の背中を
押したのです。
するとアッサジ尊者は
今までよりも堂々として
品格があり清らかさに満ちた
姿となって自信をもって
托鉢をしました。
すると、人々はその姿に
布施の心を起こして
たくさんの施しを行いました。
その姿を遠くから
眺めていたのは出家前の
舎利弗(しゃりほつ)尊者でした。
『あなたのお姿は清らかで
輝いておられます。
あなたはどなたを師として
修行しておられるのですか。』
アッサジ尊者が答えると
『そのお方は、
どのような教えをお説きに
なるのでしょうか。』
すると
アッサジ尊者は答えました。
「私は弟子になって間もないため
尊者の教えを広く説くことは
できません。」
舎利弗尊者は、
アッサジ尊者の謙虚さに
ますます師である釈迦の
すばらしさを感じ取りました。
一言でも良いので
教えを聞きたいと願いました。
そこでアッサジ尊者が
因果の通りに関する
短い偈を唱えると・・
舎利弗尊者はとても感動して
修行を共にしていた
目連(もくれん)尊者を誘い
釈迦のもとへ弟子入りしました。
アッサジ尊者は
この出来事によって
釈迦から威儀(いぎ)を
讃えられて「威儀第一」と
称せられました。
威儀(いぎ)とは
品格のある姿のことです。
その後も
自分が舎利弗尊者を
済度(さいど)したと
自慢したり兄弟子として
尊大に振舞ったりすることなく
常に控えめであり
かつ堂々としており
その姿に舎利弗尊者も
生涯変わらぬ感謝と
尊敬の念を抱き続けたと
云います。
真(まこと)の謙虚さとは
自らを卑下することではなく
高い目標や理想をもって
研鑽(けんさん)を積み
自信を持っていながらも
自分の至らなさを知っていること
と云います。
言葉で語らなくても
相手に伝わるほどの
威厳に満ちた姿は
日々の精進なしには
得られないもの。
常に控えめであったからこそ
自らを省み、心を清浄に
保つことができる。
これとは逆に身の程を知らず
自らを過大評価して釈迦に挑んだ
提婆達多(だいばだった)は
釈迦の弟子たちを自分へ
引き込もうとして最後は
身を滅ぼしてしまいました。
驕(おご)りて滅びざる者は
未だ之れあらざるなり
謙虚な心になることで
“させて頂きたい”という
奉仕の心が生まれ
「何かさせて頂きたい」
と実践することは
自らが進んで行うことになり
決して「してやっている」
「してあげている」という
心にはならないもの。
感謝の心を起こすことなく
謙虚な心を失うなら
何をするにしても
「こんなにしてやってるのに」
「自分ばかりがどうして
こんなことをしなくてはならないのか」
そうした怒りや愚痴が
生まれてくる。
人の姿というのは
真に愚かなる凡夫と
云われています。
“謙虚な心を忘れない、本物の自信”
改めて
己の身の行いを振り返る
深い深い学びとなりました。
大切なことはいつだってシンプル。
どうぞ今をたいせつに。