八識
人間がこの世界を知るうえで
使っている感覚は
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚
いわゆる五感とされるものです。
この五感で世界を
“識(し)る”ということを
繰り返しています。
東洋哲理では
これらの感覚器官の認識を
眼識(げんしき)
耳識(にしき)
鼻識(びしき)
舌識(せつしき)
身識(しんしき)
と呼びます。
これらに心の働きである
「意識(いしき)」を加えて
『六識』とされます。
この六識に
対応する感覚が俗にいう
「虫の知らせがあった」
「第六感が働いた」
などと表現される感覚です。
古い歌に
手を打てば 鳥は飛び立つ
鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池
というものがあります。
パンパンと手を叩いた音。
鳥にしてみれば
自分に危害を加える音と感じて
一目散に飛び立つ。
逆に鯉にとっては
餌をもらえると感じて
喜び勇んで寄ってくる。
女中は主人が
呼んでいるかと思って
慌ててお茶を入れて持ってくる。
猿沢の池という同じ場で
同じ音を聴いても
鳥であるか、鯉であるか
女中であるかによって
全く異なる捉え方をしていて
世界はたったひとつの
物事の捉え方しかないわけでなく
同じひとつの世界に
存在しているように見えて
実は個々が異なる世界で
生きていることを感じる、
という歌です。
東洋哲理には
心が作り出す六つの世界、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天
の『六道界』を表す教えがあります。
心がこの六道界の
どこにあるかによって
同じものでも全く異なって
見えることを例えます。
「華厳一乗義私記(けごんいちじゅぎしき)」
には、『一水四見(いっすいしけん)』の
喩えとして以下のように説かれています。
人間にとっての「水」は
天人にとっては「瑠璃という宝石」に
餓鬼にとっては、恐ろしい
「炎の燃え上がる膿(うみ)の流れ」に見え
魚にとっては「住処(すみか)」に見える
東洋哲理の奥深さとは
「ひとつの世界が異なって見える」
という事ではなく・・
“個々の人の心の中に異なる世界がある”
という『真理』に基づきます。
ひとりひとりの心の中に
異なる世界があるということは・・
その人の心の持ち方次第で
世界を変えることさえできる、
ということであり。
このことを釈迦は「法句経」の中に
次のように説いています。
ものごとは 心にもとづき
心を主(あるじ)とし
心によって作り出される
もしも汚れた心で
話したり行ったりするならば
苦しみはその人につき従う
車をひく牛の足跡に
車輪がついて行くように
ものごとは 心にもとづき
心を主(あるじ)とし
心によってつくり出される
もしも清らかな心で
話したり行ったりするならば
福楽はその人につき従う
影がそのからだから
離れないように
心の世界はどこから
生まれてくるのでしょうか。
六識のさらに奥深くに
「無意識」という世界があります。
そこには「末那識(まなしき)」
さらにその下には
「阿頼耶識(あらやしき)」
があります。
これらを六識と合わせると
全部で『八識』となります。
この八識のうち
先の六識を「表層心」
末那識と阿頼耶識の二識を
「深層心」と云います。
深層心は無意識の世界なので
とても自覚することは
できません。
ですが、大変重要であり
末那識は「俺が」「私が」
という“我”となります。
東洋哲理に
「克服すべき」と説かれる“我”は
ここから生まれてきます。
そのため
“自我執着心”とも呼ばれます。
この末那識の下にある
深層心の「阿頼耶識」こそが
全ての世界を作り出しています。
それ故に、
『根本心(こんぽんしん)』
とも呼ばれます。
「阿頼耶」とはアーラヤという
サンスクリット語で“蔵”
という意味ですが、
その“蔵”に
自分が体験したことがすべて
蓄えられています。
たとえ自分の記憶にない
過去世の行いであっても
全てここに蓄えられています。
八識の階層を図で表すと
下記のようになります。
生まれつき高い所が苦手な人や
狭いところが苦手な人など・・
その他もろもろに人によって
説明のつかない癖があるのは
このためと云われています。
過去世の体験一切合切が
全て蓄えられた「阿頼耶識」は
その人独自のものであり
その人独自の世界を
創り出しています。
だからこそ
東洋哲理の仏教は人の心を
清らかにすべきことを
大切に説きます。
釈迦を含む七佛が共通して
説いている根本的な教え
「七佛通戎偈(しちぶつつうかいげ)」
には、こう説かれています。
諸悪莫作 衆善奉行
(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)
自浄其意 是諸佛教
(じじょうごい ぜしょぶっきょう)
あらゆる悪をなさず、諸の善を実行し
自らその心を清らかにせよ
これこそ諸佛の教えである
眼・耳・鼻・舌・身・意を
『六根(ろっこん)』と
呼びます。
六根によって悪を犯せば
心(意)は汚れますが、
その反対に
六根を浄らかに保てば
心(意)が浄らかになると
説かれています。
修験者がよく白装束に身を包んで
「六根清浄(ろっこんしょうじょう)
六根清浄・・」
と唱えながら山道を歩くのは
この六根を浄らかにすることで
自らの世界そのものを
浄らかにすることを教えたものです。
その人のそれまでに
六根を通じて「阿頼耶識」に
蓄えてきたものが“縁”に触れて
現実に顕れると云われます。
いつも同じ環境にいると
ついには阿頼耶識がそれに
染まってしまう。
このことを
『薫習(くんしゅう)』
と云います。
“薫”とは「薫じて染み込む」
という意味であり
“習”とは「繰り返して行う」
という意味です。
六根の感覚器官から繰り返し
阿頼耶識に持ち込まれれば
それがその人にとっての
「世界」になります。
どんな環境でどんな縁に触れ
何を見聞きしてどう生きるのか。
もしも清らかな心で
話したり行ったりするならば
福楽はその人につき従う
浄らかに生きることの重要性を
とても学び知りました。
大切なことはいつだってシンプル。
どうぞ今をたいせつに。